▲ 山歩・訪歩 ▲ 千草越(朝明〜甲津畑) ▲ 2005.05.29

コクイ谷出合にて

【山名】 千草越
     根の平峠(803m)
     杉峠(1042m)
【山域】 鈴鹿
【天候】 曇一時晴
【形態】 日帰り/8名+TV局スタッフ

【コースタイム】
TV収録山行のため時間の詳細は記録せず。

集合(7:00)
朝明駐車場(7:15)
 ↓
根の平峠
 ↓
コクイ谷出合
 ↓
杉峠
 ↓
甲津畑登山口(17:40)
解散(18:30)
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所要時間=11時間30分
 
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 5月中旬、歩人倶楽部隊長から「千草越のTV収録をするが、一緒に行かないか」というメールが入った。 鈴鹿ケーブルTVと滋賀ケーブルTVの連携取材らしい。もぐらもち「新聞」としては願ってもない取材対象だ。それに何でも見たがる物見高いタチなので、二つ返事で「よろしく」と応じたが、実はあとがたいへんだった。折り返し「インタビュー形式で聞くから話をしてもらいたい」「企画書を作るので原稿を書くように」とのこと。とんだ見込み違いとなって、慌てて担当部分の話の筋を作ったが、頭に納めるゆとりもなく当日の朝となった。原稿通り一言一句間違えないよう覚えようとしても覚えられるわけがない、と開き直った。
 29日朝、朝明への道を上がって行くと松尾尾根の入口に高校生がたくさん集まっていた。何事かと思って聞くと、インターハイ山岳の予選日なのだそうだ。朝明駐車場に着くとここにもインターハイ関係者がみえて、県高体連登山部の機関誌『羽鳥峰』をいただいた。あわせて根の平峠の石標設置について記した「石柱上げ山行」という資料もいただいた。本日紹介予定の話である。
 
朝明川の流れ                TV局のスタッフ
 朝明駐車場でメンバー8名とTVスタッフ3名の顔合わせ。私は飛び入り参加だからほとんど初対面の方ばかりではあるが、ネット上の知り合いではあるのですぐとけ込むことができた。TVスタッフもきさくな方々だった。
 7時15分、出発。新緑の朝明の風景を撮りながら進む。メンバーの中で一番弱者である私は2番手を歩く。この位置が一番疲れないのだ。先頭の足達者に話しかけて、伊勢谷沿いの広い道は堰堤工事のために拡幅・舗装されたもので、以前はジムニーで走ることができた、というような話も聞き出せる。
 TVスタッフはたいへんだ。重いカメラや三脚、集音マイクを担がなければならないし、風景や隊列を撮らなければならない。要所要所で千草越の歴史やエピソード、山や谷、登山道から古木にいたるまでカメラに収めて行く。終わってからチーフカメラマンの肩に血がにじんでいるのを見て、仕事をやり遂げるプロ根性に感激したのであった。
 私の出番は根の平峠と愛知川出合である。隊長が「こ こは何という峠ですか」「このあたりではどんな花が咲きますか」と質問するのに合わせて答えるのであるが、原稿に書いたことなど覚えていないのでほとんどアドリブである。聞き役もそれをどう引き取っていいのか分からず困ったに違いない。とはいえ、これだけは言わなければならないと思っていたのは、根の平峠の「石柱上げ」のことである。同様の石標が羽鳥峰と中峠にもある。これらは朝明の観光協会が2000年6月に設置したものであるが、その蔭に観光協会からの依頼で1つ60sもある石標を3つ運び上げたH高校山岳部員の青春物語があった。彼らはその年インターハイに敗退して 、悔しい思いをかこっていた。彼らの落胆を思いやった山岳部顧問はこの話を引き受けて、部員たちに60sの砂袋を背負って現地を歩くトレーニングを重ねさせた。結果、これらの石標はみごと運び上げられ、部員たちにも自信に満ちた明るい顔が戻ったのであった。

サラサドウダン
 
伊勢谷上流            神杉
 私に与えられたもう一つの任務は、コクイ谷出合でこの山域の花を紹介することである。冬の間この辺りはすっかり雪に埋もれること、その雪が融けてまず春の到来を告げるのがイワウチワ、続いてイワカガミ、ヤマシャクヤクやホンシャクナゲが群落を作ること、花目当てにたくさんの入山者で賑わうことなどを話したように思うが、せせらぎに紛れて録音してもらえたかどうか心配である。今満開のサラサドウダンに触れたかどうか覚えていない。これで自分の出番が終わって緊張感から解放されて饒舌になってきたが、可哀想なのはこれからの出番のメンバーで、だんだん無口になっていくようだった。
コクイ谷出合にて
 コクイ谷を渡るとすっかりノンキになってあとは山行取材記者に戻ったが、はしゃいではヒンシュクを買うだろう。真面目くさって、御池谷(愛知川本流)や支沢の模様、御池鉱山の歴史と現状を取材する。
 御池鉱山では 銅や銀、マンガンなどが採掘されていたようで、最盛の大正期には数百人が働き、学校や郵便局、神社まであったと記録されている。住居跡とそれを囲む石垣、金山神社への石段としっかり作られた祭壇の跡。昼食場所として選んだ広場には大きな樽が埋まり、鉱石を溶かしたあとのスラグがころがっている。あたりに転がる茶碗やドンブリ、酒ビンの欠片は往時を偲ばせ、また哀れさを誘うのであった。ここではギンランとヨウラクツツジが見付かったので、そこは花好きのメンバー連、順番にデジカメを活躍させたのであった。
 他に鉱山は、近くに高昌鉱山、国位鉱山があり、杉峠の西にも向山鉱山があったそうだが、久しい昔にすべて廃鉱になっている。

御池鉱山での生活の証
 13時25分、杉峠。千草越二つ目の峠で、標高は1042mある。伊勢の千草と近江の甲津畑を結ぶ千草越は10数qあるだろう。その間に二つの峠を越えなければならない。中世の頃から通じていた道で保内商人が往来していたというが、その商品の運搬に携わった人々の苦労は一通りではなかっただろう。織田信長や彼を狙撃した善住坊も汗を拭き拭きこの峠に登ったに違いない。杣人や炭焼夫、木地師たちは毎日のように通っていた。杉峠の老杉は今は半身不随であるが、若い時からそれらをズーッとジーッと見続けてきた。いつまでも「杉峠」の名を守るにはそろそろ後継杉が必要なのかもしれない。

杉峠での撮影風景

杉峠の老杉             ミズナラの古木
 以前この峠で、甲津畑から登ってきた人たちがズボンまで脱いでヒル退治をしているのを目撃したことがある。以降私はここから西へ行ったことがない。すっかり怖じ気がついて行く気が起こらなかったけれど、今日はそんな弱気を見せるわけには行かず、あとにつき従った。
 杉峠から西の道は随所に街道としての面影が残り、また遺跡も多い。峠を下り始めるとすぐ杉やナラの大木が目立つようになる。向山鉱山は昭和30年代まで稼働していたようで、鉱山跡やボタ山、少し離れて鉱山主の佐野育造碑が確認できた。
 シデの木。これは見事な大木で、女性メンバー3人が手を伸ばし合っても届かなかったから胸高幹回りは5m近くあるのではないか。何シデなのか、幹肌では古趣を帯びて判断しがたく葉による同定となったが、アカシデという結論に達したようだった。
 蓮如上人が叡山衆徒に追われて難を逃れた「御旧跡」、塩津々古屋敷、桜地蔵を見る。カメラはその都度留まって丁寧な撮影・収録を続けている。フジキリ谷に沿った林道岩ヶ谷線を下っていくと善住坊の隠れ岩という大岩があった。そこへ行くには林道から急傾斜を危なっかしく降りていかなければならない。やっと岩のある河原に着いて「こんな所に隠れていてどうしてあんなに高い道を行く信長が狙えたのか」という素朴な質問をしたら「あの道は今の林道。昔は谷沿いに道があった」と一蹴されてしまった。これはウカツでした。
 隠れ岩から少しで幅広の舗装路に出た。滋賀ケーブルTVの車が迎えに来てくれていた。甲津畑集落に入り信長馬つなぎの松を取材して、最後は甲津畑小学校の端正な校舎を望みながら解散となった。
 11時間半に及ぶ収録山行、メンバーの皆さん、CNS、SCNスタッフの皆さん、すてきな山行を共にさせていただき、ありがとうございました。

アカシデ巨木

善住坊の隠れ岩               信長馬つなぎの松

甲津畑にて解散